白血病になった時の話

人生で二度白血病にかかりました(現在は寛解しています)。その時の記憶を遡りここに記していきます。

退院・卒業

f:id:storyofall:20190709203408j:image

退院

ついに長い長い入院治療を終え、退院する事が出来る事になりました。

気になっていた頭にも少しだけですが毛が生えてきました。

胸の中にずっと繋がっていたカテーテルもやっと抜くことが出来ます。

(抜くときは意外とあっさりでした)

長く刺さっていたので傷跡は今でも残っています。

 

退院時の事は正直あまり覚えていません(^_^;)

退院しても暫くは病院に通っていたせいかもしれません。

 

今後の治療

退院は決まりましたが、白血病の治療が終わったわけではありません。

今後は外来にての治療、もしくは短期の入院にて治療を行っていきます。

この治療も長く、最後の治療が終わるまでには1年以上もあります。

その間に再発してないかの検査も定期的にあります。

マルク(骨髄穿刺)のことです。

そしてこれは治療が終わっても暫く続きます。

 

不安

無事に退院でき、卒業式にだけは出られる事になった僕でしたが、学校に行く事はすごく不安でした。

入院前よりかなり太りましたし、入院前は長かった髪も今はほぼありません。

そんな自分を見られるのも嫌でしたし、久しぶりに会う同級生にどう接したらいいのかも分かりませんでした。

入院中はお医者さん、看護師さん、学校の先生、患者のお母さん方などの年上の方か、年下の小さい子とばかり話していましたから(⌒-⌒; )

 

いざ学校へ

不安ながらも約1年ぶりの学校へ車で向かいました。

制服を着るのも久しぶりです。

学校に着き、自分の教室に恐る恐る入りました。

 

同級生は心配してくれたり、明るく接してくれました。

僕の不安だった見た目の事には触れず、普通に接してくれたんです。

気が楽になりました(⌒-⌒; )

先生も僕の退院を喜んでくれました。

アイスかジュースか忘れましたがなんか買ってくれました♫

 

後悔してる事

僕の病気が分かって暫く入院する事が決まった時、心配してくれてわざわざ電話をくれた女子がいたんです。

全然話した事は無いんですが、可愛い子で当時僕は彼女の事が好きだったんです。

そんな子が電話をくれて戸惑いました。まともに喋れてなかったと思いますw

手紙もかなり長く書いてくれましたし、それを僕もすごい喜んでました。

 

久しぶりに学校に帰った来た僕に彼女も嬉しそうに話しかけてくれたんですが。

 

僕、同年代の女子への耐性が無くなってまして。。。

いや、元からないようなものだったんですが(⌒-⌒; )

(ごめんなさい強がりました)

 

どう喋ったら良いか分からず、とても素っ気なくしちゃったんです……。

 

心配してくれた彼女にとても申し訳なくて、当時の自分をぶっ飛ばしたいです(´・ω・`)

本当にごめんなさい(>_<)

 

卒業

ともあれ卒業式を無事終えることができました。

3年生で学校に通えたのはこの1日だけでしたが、病気を乗り越え無事に中学を卒業出来て本当に良かったです。

助けてくれた全ての人に感謝です。

 

おくりもの・卒業写真

f:id:storyofall:20190706065256j:image

入院中にクラスの皆と担任の先生から何度かおくりものをいただきました。

 

  • もらったもの
  • 手紙
  • 色紙
  • 千羽鶴
  • 学校祭のビデオ 

 

手紙

A4サイズの紙に書かれたメッセージでした。

男子からはストレートな言葉が多かったです。

『早く治せよ!』とか『早く帰ってこい!』とか。

他にもウケ狙いのメッセージや『〇〇が坊主になったよ!』みたいな報告もありました^^

男子は割と余白が多めでしたねw

 

先生からは長文の(男子に比べてw)しっかりしたメッセージをいただきました。

あんまり覚えていないんですが、今学校ではこんなことをしてるとか、待ってるよ的なことが書いてあった気がします。

 

女子からは長めなメッセージが多く、イラストが描かれてたり、色ペンを使った明るい文が多かったです♪

『こんなことがあったー!』とか喋り口調のメッセージが多かったと思う。

学校生活では男友達とばっかり絡んでたので不思議な感じでした^^

デレデレしながら読んでたかもw

そんな自分が気持ち悪いです・・・w

 

ふふっとなったりニヤッとしたり、そんな嬉しい手紙で元気がもらえました^-^

 
色紙

男女別々で書いた色紙をくれました。

 

手紙もそうなんだけど男子は短文で似たような言葉が多いw

少しだけ言葉の言い方を変えてるだけw

それが面白かったんですけどね^^

あとみんな黒ペンとか暗い色w

先生だけ長文w

 

対する女子はみんな別々の色で書いててカラフル。

メッセージも沢山書いてくれました^^

あんまり話したこともない僕にこんなに書いてくれて嬉しかったですわ♪

 

男子と女子パッと比べてみると男子には嫌われてるのかと思うくらいのギャップw

それも面白かったです^^

 

千羽鶴 

僕の為に折ってくれた千羽鶴

授業の時間を割いたりして頑張って折ったと手紙にも書いてありました。

とても嬉しかったんですが、部屋移動の多かった入院生活で結構な大きさの千羽鶴は、その都度移動するのが大変だった為、家で保管していました。

申し訳ないです・・・。

でも気持ちはちゃんと受け取りました∩^ω^∩

 

学校祭のビデオ 

中学3年の学校祭のビデオ。

クラスの出し物の様子を写したビデオでした。

良かったんですが少しだけ複雑でした^^;

学校祭に思い入れがあったわけではないんですが、出れない自分が少しだけ寂しかったのかもしれません。

 

おくりものを貰って 

沢山のおくりもので元気を貰えたし笑えたし、闘病生活を頑張る力になったと思います!

手紙も色紙も千羽鶴も15年経った今でもまだ持ってます。

(家のどこかに眠ってるはず)

そのうち引っ張り出して内容をブログに書くかもしれません^ ^

 

卒業の準備

中学校もついに卒業の時期になりました。

といっても僕はついに中学3年生をずっと病院で過ごすことになってしまいました。

ですが卒業式までには何とか退院させてくれることになりました。

でも、正直卒業式に出たいとは思っていませんでした。

 

卒業写真

普通生徒は学校で写真を撮るのでしょうが僕は入院中な為、外泊のタイミングで写真屋さんに行って撮ることになりました。

 

髪の毛のない僕はバンダナを付けたまま写真を撮りました。

一応笑顔で。

 

後から出来た卒業アルバムを見ると、僕の写真はとても浮いているように見えました。

薬で顔もぶくぶく太っていて、髪もない。

アルバムの自分を見たくなかったです。

捨ててしまいたいくらいでした。

 

次の記事で卒業式に出た時の事を話したいと思います。

放射線治療

f:id:storyofall:20190630124832j:image

地固め療法もほぼ終盤にかかってきました。

入院してから既に約1年経っていたと思います。

入院しながらの治療も終盤にかかってきました。

 

今までは主に点滴の抗癌剤での治療でした。

(たまに飲み薬の抗癌剤)

そして今回、新たに放射線治療を始めると担当医から聞かされました。

それも主に頭に放射線を当てるとのことでした。

 

放射線治療とは

外側から放射線を照射して癌細胞を攻撃して消滅させる治療法です。

 

放射線治療をする理由

僕の罹った急性リンパ性白血病は脳にも癌細胞がいく可能性のある病気です。

抗癌剤は血液中には周りますが、脳にはいきわたりません。

その為、脳にも行き渡るようにルンバールの過程で抗癌剤を入れます。

 

⬇︎ルンバールについての記事

ルンバール - 白血病になった時の話

 

それに加えてさらに放射線治療をする理由は、再発をより防ぐ為です。

 

治療の前準備

治療をするには準備があります。

マスクを作るんです。

放射線を照射する部位をマーキングするのと、頭を固定する役割があります。

ギプスの様な素材でフェンシングのマスクの網バージョンのような物です。

放射線治療 マスク】で検索すると画像が出てきます。

 

放射線治療

治療は一度ではなく、数回行われます。

まずは台の上で寝た状態でマスクを被ります。

そのあと身体を固定されたはずです。

後は照射が始まり、それが終わるのをじっとして待っているだけです。

時間は10分くらいだったでしょうか。

ちょっと覚えてません(⌒-⌒; )

寝てるだけの治療でした。

初日は特に何もなく終わり、こんなものか?と感じましたが…。

 

副作用の衝撃

治療した次の日の朝。

僕は気持ち悪さと共に目覚めました。

放射線治療でも吐き気が起こったんです。

しかしそれよりももっと衝撃的な事が起こりました。

 

髪の毛がごっそり抜けたんです。

 

脱毛のショック

抗癌剤治療は髪の毛が抜ける。

知っていた事でしたし、実際髪は抜けていました。

しかし髪質が強く、髪の量の多かった僕だからでしょうか。

治療終盤になっても僕の髪の毛は結構残っていたんです。

このまま髪の毛が無くならずに治療が終わるのではないか。

正直そう思って期待していました。

 

その期待は突然、一瞬でぶち壊されました。

恐怖を感じました。

身体が震えました。

指で頭を撫でると毛がなく、地肌に触れるんです。

鏡を見るのが怖かった。

 

その後

その日からは頭を隠す様にバンダナを巻いて生活し始めました。

僕は毛が無くなった自分を認められませんでした。

看護師さんは頭の形が良いから大丈夫と言いました。

それが本当のことか気を使ってかは分かりませんが、どっちだとしても僕には関係なかったです。

 

放射線治療は無事全て終わりました。

何度か吐いたかもしれないので無事とは言わないかもしれませんが(⌒-⌒; )

 

放射線治療は吐き気も辛かったはずなんですが、髪が無くなった衝撃が強すぎてあまり覚えていません。

当時の僕にはショックが大きすぎました。

 

読んでくださりありがとうございました。

 

 

骨髄移植をした友だちの話

f:id:storyofall:20190624120942j:image

今回は入院したばかりの時に友達になってくれた子の話です。

その時の事は以下の記事に書いています。

よろしければそちらもよろしくお願いします。

⬇︎

小児科と仲間 - 白血病になった時の話

 

友達のこと

当時の彼は小学校2、3年生くらいだったと記憶しています。

入院には母親も一緒でした。

幼い子の入院で、母親が一緒に入院することは当時のこの病院ではよくある事でした。

(現在の一般の病院がどうなのか分かりません)

とても明るく、よく笑うゲーム好きな子でした。

 

友達の病状

僕が入院するきっかけとなった採血結果の異常は、白血球が異常に少ないということでした。

それに対して、彼は白血球が異常に多かったそうです。

詳しくは分かりませんが、【白血球が異常に多い】方が、【異常に少ない】方より緊急性が高いと当時聞いた覚えがあります。

 

白血病の種類が急性なのか慢性なのか、骨髄性なのかリンパ性なのかは覚えていませんが、治すには骨髄移植が必要とのことでした。

 

骨髄移植

親友の時と違い、骨髄移植は別の病院でするとの事でした。

移植にも色々種類があるようなので、転院先でしか出来ないものだったのかもしれません。

そして友達は転院していきました。

 

この時の僕は骨髄移植がどうゆうものかを理解していませんでした。

 

帰ってきた友達

何ヶ月経ったかは覚えていませんが、友達が骨髄移植を終えて病院に帰ってきました。

しかし、帰ってきた彼に当時の明るくよく笑う面影は全くありませんでした。

久しぶりに会った彼は車椅子に乗っていました。

親友が骨髄移植した時のように髪が抜け、肌が黒ずんでいました。

マスクをしていたんですが、こちらを見る目は力なく、怯えたような感じにも見えました。

 

話を聞くと、転院先の先生や看護師さんがとても厳しかったようで、そのストレスで彼は喋ることが出来なくなってしまったとの事でした。

 

骨髄移植を経験した今だからこそ分かりますが、移植する時は免疫力が極限まで下がっている状態なんです。

ちょっとしたことで感染してしまうリスクがあるので、看護師さんが厳しくなるのも当然だと思います。

感染が死に繋がる可能性が十分にありますから。

 

でもまだ幼い彼にはとても辛い事だったでしょう。

とても良く頑張ったと思います。

 

その後

久しぶりに病院で会った彼は、髪もはえて肌の黒ずみも無くなっていました。

歩けるようにも喋れるようにもなり、また明るい姿を見ることが出来ました。

とても嬉しいことです(*^ω^*)

現在連絡はとっておらず、どうしているのかはわかりませんが、元気で人生を楽しんでいることを願っています。

 

僕が二度目の闘病生活で骨髄移植をした時の話もいずれブログに書きますね。

副作用について

f:id:storyofall:20190618090915j:image

今回は一度目の闘病中に自分が体験した副作用と、周りの入院患者さんが実際になっていた副作用の事を話そうと思います。

 

白血病や癌などの治療が辛いのは抗癌剤治療の副作用のせいでしょう。

出る副作用は抗癌剤の種類によって変わりますが、ここではそこには触れず、起こった副作用の話だけします。

副作用なく治療する事が出来たら一番良いんですがね。

 

※約15年前の話です

 

脱毛

一番有名な副作用だと思います。

髪が抜けると認識されてる方が多いと思いますが、実際には髪以外の毛も抜けます。

すね毛とかはいくら抜けても構わないんですが、髪の毛は辛いものがあります。

 

髪が抜けるスピードは抗癌剤の投与量や種類、使う回数などによって変わると思います。

全て無くなっていた患者さんもいましたし、髪が残っている患者さんもいました。

僕も髪がどんどん抜けていきました。

ですが抗癌剤では完全に無くなることはなかったです。

 

最終的に僕もある治療で髪は全て抜けたんですが、やはりとてもショックでした。

その事については今後のブログで書くつもりです。

 

吐き気

脱毛同様有名な副作用です。

これが特に治療を辛くしている原因です。

吐き気が無ければ入院生活はかなり楽になると思います。

吐いて吐いて吐いて吐いて数えられないくらい吐きました。

過去記事でも書きましたが『抗癌剤』というワードを聞くだけで吐き気を起こすぐらいのトラウマを植えつけられましたから(~_~;)

子供は三半規管がまだ発達途中なので、大人と比べると吐き気を起こしやすいそうです。

 

口内炎

これもかなり辛い副作用です。

吐き気と口内炎が無くなれば当時の入院はほぼ辛くなかったといってもいいかもしれません。

 

口内炎が口内のそこら中に出来て痛くて痛くてまともに食事も歯ブラシも出来ません。

常に痛い状態なので本当に地獄でした。

口内炎だらけの状態で吐いたりしたらもう痛くて気持ち悪くて最悪ですよ。

 

便秘

僕は記憶にないんですが、便秘も副作用の一つです。

運良くこの副作用で苦しむことは無かったのか、忘れてしまっているだけなのかはわかりません。

 

しかし、辛いのは間違いないでしょう。

 

嗅覚の異常

何故か変な臭いを感じる副作用です。

いつも通り生活していると例えようのない変な臭いを感じたんです。

ゴミとか生ゴミとかそういう臭いではないです。

何かに例え難い臭い。

でも兎に角気持ち悪く不快な臭いでした。

これも吐き気と合わさると最悪でした。

 

味覚の異常

味が変に感じる副作用です。

辛いものが甘くなったりとかそういうわけではありません。

味が薄くなるような感じで、食べ物の美味しさを感じ辛くなったりしました。

 

他の患者さんの話ですが、何を食べても味がしないといっている患者さんがいました。

入院生活では食べることが数少ない楽しみの一つなんです。

とても辛いです。

 

さいごに

もう一度言いますが、これは約15年前の話です。

また、僕が忘れている副作用や、知らない副作用、運良く体感することのなかった副作用も沢山あると思います。

今では医療の進化で症状を抑えられたり、抑える方法が解明されたりもしているでしょう。

 

当時の記憶はどんどん薄れていっていますが、辛かった副作用の記憶はまだあります。

トラウマもしばらくは残り続けました。

幸いなことに今はもうほとんどありません(^_^)

 

読んでくださりありがとうございました!

家族のこと


今回は闘病生活を支えてくれた家族についての話です。

家族の支えなしでは僕は治療を乗り越えられなかったと思います。

 

母親の事

入院してから母はほぼ毎日お見舞いに来てくれていました。

家から病院が近くだったわけではありません。

往復だと1時間以上する道です。

それをほぼ毎日車を運転して会いに来てくれていました。

さらにそれに加え、僕があれが食べたいとか、これが欲しいとか言うもんですから更に時間がかかってましたね。

(そのせいもあってか病院では毎回僕のベッドで寝ていましたw)

最初のうちは高速道路で移動していたのでお金も沢山かかっていました。

 

外泊許可がおりて実家に帰る時、車の移動中に母が睡魔と戦いながら運転していることに気付きました。

そりゃそうです。

毎日見舞いに来てくれて、家に帰ったら家事もしなきゃいけません。

今思うとあれこれわがままを言って負担をかけた事をとても申し訳なく思います。

ですが、一緒に付いててくれたことが凄く心強かったです。

調子の悪い時は特に。

 

父親のこと

仕事をしてる父は母程お見舞いにはこれませんでしたが、たまの仕事帰りや休みの日に来てくれていました。

病院食を食べたくない僕は父によくファーストフードを頼んでました。

モスバーガーとかケンタッキーとか。

父の面白いところは自分の分もしっかり買ってくることでしたねw

よく一緒に食べていました。

日々仕事で疲れている中来てくれてとても感謝です。

 

弟のこと

5つ下の弟もたまーに休みの日一緒に来てくれていました。

病院食が珍しいようで、僕が美味しくないからと残した病院食を食べていましたw

後に髪の毛が全て抜けてしまった僕を見て可哀想だと泣いてくれていたらしいです。

これは母から聞いた話。

 

母が毎日見舞いに来ていたため、弟には寂しい思いをさせてしまっていたと思います。

 

さいごに

家族には体力的にも精神的にも金銭的にもとても迷惑をかけてしまっていたと感じています。

ですが家族の支えもあって病気を乗り越えられたました。

本当にありがたく思っています。

闘病仲間だった親友の話

ある日小児科病棟に新たな患者が入院してきました。

割と年の近そうな男の子でした。

その時の部屋は2人部屋。

僕は廊下側のベットで彼は窓側でした。

来た時はカーテンを閉め切った状態。

気持ちはよく分かります。

僕も入院した時はそうでした。

 

とあるきっかけで仲良くなる

何日間かは顔も合わせず、話もしない状態でした。

僕自身初めて会った人とフレンドリーに話せるようなタイプではなかったので(^_^;)

 

その日はお互いの母親が見舞いに来ていました。

すると隣の2人の話で地元の地名が出てきたんです。

母親がすぐに反応し話しかけると何と同じところに住んでいることが判明しました。

そして中学校も一緒!

仲良くなるのに時間はかかりませんでした^ ^

 

親友のこと

彼は僕より一歳年下でした。

同じ中学校でしたが部活に入らず、他の学年とあまり関わらない僕だったので面識はなかったです。

僕は急性リンパ性白血病でしたが、彼は骨髄性白血病でした。

僕と違い骨髄移植が必要だったんです。

 

過ごした日々

年が近い事や同じゲーム好きだったこともあり、辛い入院生活にも楽しさが増えました。

 

話したり、一緒にDVDを見たり、ゲームしたり、売店に買い物に行ったり、食堂でご飯食べたり。

お互いが元気な時はよく一緒に行動していました。

明るく、ふざけるのが好きで気の合う仲間になれたと思ってます。

 

彼の母親も明るく面白い人でとても良くしてくれました^ ^

 

骨髄移植

やがて彼は骨髄移植のため個室に移動になりました。

この時は骨髄移植というものがなんなのか、僕はちゃんと理解出来ていませんでした。

今、骨髄移植を経験した僕だから分かります。

その辛さを。

 

骨髄移植する為には前治療というものがあります。

より強い抗癌剤を使って骨髄を弱らせます。

そこにドナーさんの骨髄を入れ、生着するまで待つのです。

異常のある自分の骨髄をドナーさんの骨髄で上書き保存するようなイメージです。

 

骨髄移植後の彼

移植が終わった後に彼に会いに行きました。

免疫が極限に下がっている状態なので、窓越しでの対面でした。

これまでの彼とは様子が全く違いました。

髪はなくなり、肌は黒ずんでいました。

マスクをしてベッドに横になっている状態です。

言葉が交わせなかったので手を振ると首を振って返してくれましたね。

その日はそれだけして自分の病室に戻りました。

 

転院

後日部屋の前に行ってみると窓のついたドアがしきりで隠されていたんです。

『あれ?なにかあったのかな?』

と思い看護師さんに聞いてみるとか

『転院した』

と聞かされました。

 

随分急な転院です。

当人はまだしも彼の母親からも挨拶も何もない。

不思議に思いました。

 

転院というのは嘘で彼は亡くなっていました。

肺に水がたまり体調が急変して亡くなったそうです。

 

母親にそれを聞かされた時の僕は驚くでもなく、涙を流すでもなく。

正直よく分からなかったんです。

実感が湧きませんでした。

そして治療中の僕は葬式に行くことすら出来ませんでした。

 

最後に

僕は運良く寛解して退院することが出来ましたが、当時は亡くなる人も多かったんです。

新たに仲良くなった年の近い人達が次々と亡くなっていきました。

何度も転院転院言われたら嫌でも察します。

 

白血病はとても怖い病気です。

生きたくても生きられない人がいる。いた。

僕はその人達の分まで、せっかく助かった命後悔せずに生きる。

隔離と口内炎地獄

メソトレキセート

当時入院患者の間で最強の抗癌剤と言われていました。(以後メソ)

CCレモンみたいな色をしています。

この抗癌剤、投与量がハンパないです。

オレンジの抗癌剤の何倍も量がある為、その分時間もかかります。

繋がれてる時間が長いだけ気が滅入りますよ(^_^;)

 

隔離

抗癌剤を投与した結果、白血球が1000以下まで下がってしまいました。

免疫力がかなり低下していて感染しやすく、危険な状態です。

この病院では1000以下になると個室に隔離される事になっていました。

白血球が回復するまでは部屋から出られません。

 

また、食事も制限されます。

納豆や生物は感染の恐れがある為食べられません。

 

これまで僕は治療で白血球が下がることはあっても1000を切る事はありませんでした。

これが初めての隔離でした。

 

感染リスクを減らす為、面会は極一部の人のみ。

消毒、マスクは必須です。

 

因みに500以下になると、個室の隔離に加えて透明なカーテンの付いた大きい空気清浄機みたいなのでベットごと覆われます。

個室どころかベットからすら出られません。

僕は最後まで500以下になる事はありませんでしたが、免疫の下がりやすい小さな子はよくなってて可哀相でしたね…。

 

隔離の辛さ

個室はトイレ付きで、全く外に出る必要のない部屋です。

その時の僕の身体には最適の部屋でした。

ですが気持ち的にはそうではありません。

 

入院生活はとても退屈ではありましたが、それでも病院内は自由に動けます。

お腹が空けば売店やレストランや自販機がありますし、気晴らしや運動に夜なら病院内を散歩も出来ます。

その行動範囲が部屋だけに狭められるのは結構辛いものがありました。

 

白血球は1日2日じゃ戻りません。

部屋に来る看護師さん、お医者さん、家族(母親)しか外との接点がありません。

気晴らしや励みになっていた他の患者さんやその家族の方とも会う事はありません。

『いつまでここに閉じ込められていなきゃいけないんだ。』

と思いました。

 

口内炎

メソは口内炎になりやすい抗癌剤です。

抗癌剤治療の副作用で有名なのは吐き気ですが、口内炎も特に辛い副作用のひとつです。

僕も例外ではありませんでした。

 

口内炎になった事がない人は少ないと思います。

触れるだけで痛いものがありますよね?

あれが大量に出来ました。

何かが触れると激痛が走ります。

とても食事できる状態ではありません。

でもお腹は減るんですよね(^_^;)

 

食事と歯ブラシ

その日の食事は鯖の味噌煮でした。

美味しくない病院食の中でも好きなメニューでした。

試しに食べてみたんですが痛くて痛くてどうにもなりませんでした。

そこで僕はどうしたか。

 

鯖をほぐしてご飯にかけて一気に無理矢理かっこんだんですw

めちゃめちゃ痛いですが早く終わらせたい一心で頑張りました。

ただただ痛い。

痛いしか言うことありません。

 

そんな状態なのでまともに歯も磨けないんです。

でも免疫が低い時に口内を汚れたままにするのは非常に良くないです。

そんな時お医者さんが口内をケア出来る粘性の高いうがい薬を出してくれたので試してみたんです。

その粘性が気持ち悪くて頑張って食べたものを吐いてしまいました。

 

白血球が高くなり、免疫が良くならないと口内炎も良くなりません。

この地獄はしばらく続きました。

 

看護学生さん・恩師について

看護学生さん

 

何度か看護学生さんが研修の為に小児科に来ることがありました。

実際に入院している患者の担当となり、数日間血圧を測ったり身体を拭いてくれたりします。

あとは何気ない会話をしたりしていました。

 

僕にも退院するまでの間、4人の学生さんが担当になりました。

小さい子よりも中学生の僕の方がやりやすいようで、毎回担当を付けられてましたねw

嫌なわけではありませんよ?

 

  • 1人目

ハーフみたいな美人な学生さんでした!

1人目という事で一番よく覚えてます。

EXILE好きだと言っていましたね(^^)

経緯は忘れましたが学生さんがオセロを持ってきて対戦してましたw

子供相手だから手加減する…なんていうことはなく、普通に負かされましたね(^^;

 

  • 2人目

申し訳ないんですが顔しか覚えていません^^;

笑顔で明るい人だった気がします。

 

  • 3人目

独特のキャラでした。

少林寺拳法部を作ったと言っていましたね。

 

  • 4人目

眼鏡をかけた優しい人でした。

担当が終わった後一度外来で会ったんですが、脳外科だかの看護師さんが怖くて泣かされたって言ってましたね。

 

あまり変化のない入院生活で看護学生さんの存在は、僕にとってはとても良い気分転換になっていたと思います(*^ω^*)

 

 

 

 

学校

 

中学3年生になっていた僕は高校受験を控えていたため、勉強する必要がありました。

 

 

 

ですが当然学校には通えない為、僕のような入院患者に授業をしてくれる先生に来てもらうことになりました。

 

担当になった先生は若くて目元が化粧でキラキラしていた女の先生でした。

自分の事を美しいと言っているとても面白い先生でしたw

後から知りましたが僕が初めて教える生徒だったそうです。

 

週に2回ほど病院に来てくれていました。

授業時間は2時間くらいだったと記憶しています。

具合が悪い時は出来無かったので実際にはもっと授業時間は少なかったです。

 

授業

 

授業といっても2時間しかないのでやれる事は限られます。

苦手な教科はほとんどやらず、得意な教科ばかりをしていた気がします。

というより勉強自体ほとんどしていませんでした(^◇^;)

 

授業?

 

この時の僕は本当に勉強が嫌いだったんですw

経緯は忘れましたが実験をしようという事になりました。

実際にホッカイロを作ったり、牛乳パックを使って電気を使ってパンを作って食べたりしましたね。

ひたすらパソコンでマインスイーパしてる時もありました。

とても受験を控えた人間のすることじゃありませんね(^◇^;)

それでも楽しかったです。

 

受験

 

志望校がなく、興味もなかった僕は母親と先生が相談して決めた学校を言われるままに受ける事になりました。

評判の良い高校という事だけ聞いていました。

倍率がかなり高かったようです。

全然勉強していない僕には厳しいかと思われました。

 

受験当日

 

免疫の弱まっている僕は別室で一人での受験と面接でした。

テストはほとんどさっぱり分かりませんでしたね。

国語はほとんど勉強していない。

理科は勉強したところがほとんど出ず。

社会もサッパリ。

数学も英語も思わしくなかったです。

テストは絶望的でしたw

面接は特に問題なく終えることが出来ました。

 

結果

 

倍率が高く、ほとんど勉強もせず、絶望的なテスト結果だったにも関わらず、僕は志望校に合格することが出来ました!

自分でびっくりでした(^◇^;)

 

先生が高校に受かったお祝いにご飯ご馳走してくれたのを覚えています。

わざわざ遠くから実家まで迎えに来てくれて食べたかった店でご馳走してくれました♫

遠慮せずに高いの頼んでしまったので高くなってしまったのが申し訳ないです(^_^;)

 

先生には沢山お世話になりました。

間違いなく僕の人生での恩師です(*^ω^*)

地固め療法

治療は次のステップに続きます。

 

 

地固め療法

 

治療の期間や薬の種類は変わっても抗癌剤を投与する事に変わりはありません。

結局は吐き気などの副作用との戦いです。

髪も抜けるしメンタルが削られていきました。

 

ロイケリン

 

新しく粉薬の抗癌剤がはじまりました。

飲むだけで良くて、副作用もほとんど無かったと記憶しています。

ただこの時の僕は粉薬が大っっ嫌いだったんです!

子供かって^^;

 

なのではじめはオブラートに包んで飲んでいました。

でも量が多くて飲みづらく、どうもうまくいかなかったんですね。

でもかなり大事な薬なので絶対飲まなければならない…。

 

その対策として提案されたのがカプセルに入れる方法です。

カプセルの中に粉をつめてそれを飲むという方法です。

これなら楽に服用できます♫

カプセルは市販の大きめのサイズを買い、その中に粉薬を入れるだけです(*^ω^*)

 

量が多いのでかなり手間な作業なんですが、服用期間は毎回看護師さんが入れてくれていました。

量が多いのですごい手間だったと思います。

それを毎回毎回やってくれて看護師には感謝しかありません(^◇^;)

 

オレンジ色の抗癌剤

 

寛解導入療法でも使っていた抗癌剤です。

地固め療法でも何度か使うことがありました。

 

最初に使った時は食事も普通に取れていたのですが、プレドニンの服用量が変わったことも関係しているのか、吐き気を起こすようになってしまいました。

何度も吐いたと思います。

数えてないのでわかりません。

 

使う度に吐き気を起こし、吐く、その繰り返しです。

そのせいで僕は、最終的にオレンジ色を見ただけで吐き気を起こす様になってしまいました。

大好きだったオレンジ色の炭酸飲料があったんですが、もう吐き気の味しかしなくなりました。

見るだけでもアウトでした。

 

長い夜

 

ある治療後の夜のことです。

その日はいつも以上に吐き気が酷かったんです。

ご飯も食べられず、水分だけを摂り、口の中の気持ち悪さを吐き出すように何度も唾を吐き出してました。

何度看護師さんにガーグルベース(吐いた時などに使われる器)を替えてもらったかわかりません。

それでも何とか眠りにつきました。

 

そして眠りについてから数時間後。

ふと『吐きそう!』という思いとともに目が覚めました。

起きてすぐにガーグルベースを手に取りそこに吐き出しました。

水分しか摂ってないので水と唾の混ざったような液体しか出ませんでした。

ガーグルベースが溢れそうなくらい吐きました。

涙と鼻水と気持ち悪さで本当にしんどかった。

最悪の目覚めでした。

 

看護師さんにガーグルを片付けてもらい、水分を摂ってまた眠りにつきました。

でも抗癌剤で起こる吐き気って、酒を飲み過ぎた時のように吐いて楽になるものではないんです。

吐いた後も気持ち悪さはなくならないんです。

この日の吐き気は特別酷かったようで、また1時間もせずに吐き気で目覚め、すぐに吐きました。

全然眠れません。

 

こんな事をあと一回繰り返し、結局一夜にして3度吐いたことになります。

うんざりでした。

 

病気になったのは今から15年近く前なのである程度は忘れてしまっていますが、覚えている中でもこれはかなりの辛かった記憶です。

 

メンタルもボロボロに

 

もう何もかも嫌になっていました。

『何で僕がこんな目にあわなきゃいけないのか』

『もっと苦しむべき奴らがいるのに』

『生まれて来なきゃ良かった』

『○にたい』

『飛び降りて終わりにしてしまおうか』

そんなことも考えました。

でも涙が溢れてきて、まだ生きたいという気持ちがあることも感じていました。

 

諦めなくて本当良かった。

今はそう思います(^-^)

輸血について

寛解導入療法を終えて、今度は地固め療法をしていくことになった僕。

今まで使ってきた抗癌剤に加えて他の抗癌剤も使うことが増えていきました。

その過程で著しく血小板が下がることが幾度かありました。

それはかなり危険なことなので、その都度輸血が必要になります。

 

輸血とは

一般的には事故などで大量に出血した人が血を補う為にするものと認識されてるのではないかと思います。

白血病患者の場合は治療で下がった赤血球、血小板を補う為のものです。

 

何が危険?

赤血球(ヘモグロビン)が低くなると貧血を起こしやすくなります。

貧血が凄いと歩くこともままなりません。

本当に酷くなると視界が真っ白になっていくんです。

 

血小板が低くなると傷から血が止まらなくなったり、痣が出来やすくなります

言ってしまえば

『うっかりベッドに足をぶつけた!』

それが命取りになる可能性だってあります。

僕も何もしてないのに鼻の中が切れ、鼻血が出て中々止まらないという事が何度かありました。

 

白血球は基本的に輸血はしません。

自力で回復していくのを待ちます。

(他にも増やす方法がありますが、当時はしませんでした)

 

どんな風に輸血するのか

僕も1度目の白血病で数回した事があります。

パックに入っていて、赤血球は血そのものの赤黒い色をしています。

血小板は黄色く濁った色です。

輸血出来るのは同じ血液型の血液のみです。

 

点滴と同じように管から流していきます。

はじめはゆっくり少しずつ流していきます。

理由は稀にアレルギー反応が出る可能性があるからです。

僕は特別酷いアレルギーも無く、無事に終えることが出来たと記憶してます。

因みにもし強いアレルギー反応が出たら残りの輸血は中止し破棄するしかありません。

 

献血の事情

以前にTwitterのアカウントで以下のツイートをしました。

 

頻繁に献血を募集する理由は血に消費期限があるからです。

赤血球なら21日間で、血小板なら4日間で使用できなくなってしまいます。

とても短いです。

 

街中で募集している人はよく

『〇〇型の血液が不足しています!』

と呼びかけをしています。

恐らく、これだけあれば安定して供給できる!という在庫の量が決まってるのかもしれません。

 

献血するには

献血センターに行けば出来ると思います。

何故思いますと言ったかというと、僕は行ったことが無いからです(^_^;)

というのも僕にはもう一生献血出来る資格が無いからです。

 

献血するにはいくつか条件があります

血液疾患に罹った事がない、輸血歴がない等、日本赤十字社のページで定められていますので詳しくはそちらをご覧下さい。

 

さいごに

僕がこうして今生活出来ているのはどこかの沢山の親切な方々が献血してくれたお陰です。

この場を借りてお礼申し上げます。

本当にありがとうございました!

 

そして献血未経験の方。

もしよろしければ上のツイートを拡散してくれると嬉しいです。

献血していただけたらこれ程嬉しいことはありません(^ ^)

 

読んでいただきありがとうございました。

『当時やめて欲しかった事』と『今思う事』

白血病はとても辛い病気です。

その辛さは今まで記事に書いてきた内容からも分かっていただけるかと思います。

 

今回は、当時僕が家族やお見舞いに来てくれた人などに対してやめて欲しかった事。

また、それを今思い起こして反省している事について書いていこうと思います。

 

やめて欲しかった事

  • 治療や副作用の事を聞かれる事

入院していると親戚の人達がお見舞いに来てくれることがありました。

僕が調子の良い時であればお喋りもできます。

 

当然のことかもしれませんが、みんな僕の病状が気になるようでした。

見舞いに来てくれてるんですから心配してくれてるのだと思います。

なので

『薬は効いてるの?』

とか、

『副作用は大丈夫なの?』

と聞いてくるんですよね。

でも当時の僕はこういうことを聞かれるのが嫌でした。

 

何故かというと

【薬・抗癌剤・副作用】

などのワードがトリガーとなって辛い副作用の記憶が蘇るからです。

調子が良い時にそれをやられると吐き気が蘇って具合が悪くなりました。

 

また、僕が答えなかったとしても親が代わりに答えてしまうんですよね(^_^;)

『治療がこんなに大変で〜』

『こんな副作用が出てて〜』

『でも治療は上手くいってて〜』

などなど僕のいる前で答えるんですよ。

それに対して当時の僕が思ったことは。。

 

『治療に耐えてるのは貴方じゃないでしょ?』

『さも自分が頑張ってるかのように辛さを語りやがって!』

『そもそも抗癌剤の話をしないでくれ!思い出すだけで吐き気が甦るんだよ!』

…と思ってました(ー ー;)

 

実際食事中に抗癌剤の話をされると口いっぱいに気持ち悪さがぐわっと出てきて、食欲が一気に失せました。

 

  • 頑張ってという言葉

その言葉が大嫌いでした。

お見舞いに来てくれた人がよくかけてくれた言葉です。

『頑張って』

は単純に応援の言葉であると思います。

でも僕は素直に応援してくれている!と受け取ることが出来ませんでした。

 

『頑張ってって一体何を頑張れば良いの?』

『頑張ってないように見えるの!?』

そう感じていました。

捻くれてますねw

今は言ってくれた方々がそんなつもりで言ってないってこと、よく分かります。

 

今思うこと

 

治療・副作用について聞かれる事に関しては事前にちゃんと話しておくべきだと思いました。

『こういう理由で辛いのが蘇るからそういう話はやめて欲しい』

そう伝えておくべきでした。

 

頑張ってという言葉に関しては僕に余裕が足りなかったのだと感じています。

余裕のある状態ではなかったので仕方ないです。

でも、やはりそれならその事を伝えるべきでした。

『頑張ってという言葉は負担になるからやめて欲しい』

と。

 

さいごに

 

当時の事を少し後悔しています。

今更こんな事思い起こしたとしてもどうにもなりません。

 

白血病に限らず、もし当時の僕と同じことを思っている人がいたら、余裕がある時に少しだけ考えてみて欲しい。

周りの人は敵では無いはずです。

 

でも、この話が誰かの役に立つなら幸いですが、こんな事を今まさに治療に苦しんでいる人に言う事も酷な話かもしれません。

 

なんかモヤッとした感じになっちゃいましたね…。

一日のスケジュール

以前に一日の過ごし方についての記事を書きました。

 

www.shoichi-blog.com

 

今回はもう少し詳しく、1日のスケジュール?的な感じで振り返ろうと思います。

 

15年以上前の話なので怪しい部分もあるかもしれませんw

 

  • 7:00 起床

確か7時くらいだったと思います。

(いきなり怪しくてすみません^^;)

深夜勤務の看護師さんが部屋をまわります。

 

朝はまず

  • 熱を測る
  • 体重を測る
  • 採血をする

などしてたと記憶しています。

 

  • 8:00 朝食

(8:30だったかもしれない^^;)

御飯が配られてきてそれを食べます。

 

キッチンみたいなスペースにトースター・電子レンジ・電気ポットなどがあったんですが、隔離や調子が悪い時は看護師さんにお願いしてました。

 

具体的にはカップ麺やお茶漬けにお湯を入れてもらったり、食パンを焼いてもらったりですね。

 

スライスチーズを乗せて焼いてもらったことがあったんですが、忘れられててカッピカピになったことがありましたw

 

忙しい朝にお願いしてる身分で怒っちゃってごめんなさい><;

 

食後は薬を飲みます。

(食前の場合もあります)

 

9:00 担当の看護師が巡回

その日の担当の看護師さんが巡回してきます。

 

担当とは具体的になにをするかというと

  • その日の点滴交換
  • 吐き気止めや抗癌剤をつなぐ
  • 検査(マルク・ルンバール)があればそれの手伝い

などです。

 

好きな看護師さんが来たらテンション上がりますw

 

  • 10:00 吐き気止め・抗癌剤・検査

抗癌剤治療がある日は大体これくらいの時間帯に吐き気止めと抗癌剤をつないでいた気がします。

 

必要な治療ではありますが、僕にとってはとても憂鬱な時間です。

 

抗癌剤の種類によってはこの時間ではなく夜にやるものもあります。

 

すぐに終わるものや長時間かけてやるものもあるのであくまで一例です。

 

また、マルクやルンバールなどの検査もこれくらいの時間が多かったような気がします。

 

  • 回診

時間は決まってなかったと思いますが週のはじめには医長回診がありました。

 

小児科のお医者さんが全員で患者さんの様子見に来ます。

 

医療ドラマのように大勢でぞろぞろとではなく、3,4人です。

 

それにドラマと違いみなさんにこやかです♪

 

それ以外の日は基本的には担当医の方が回診に来ます。

 

担当医が出張などで不在の場合は代わりのお医者さんが診に来ます。

 

みんな良い先生でした^^

 

  • 12:00 昼食

朝ごはんからあまり時間空いてませんがお昼ごはんです。

 

朝も昼も晩もですが、調子が悪い時は全部食べません。

というか食べれません。

 

無理して食べても吐いちゃうので仕方ありません。

 

大体抗癌剤投与後の2,3日はほぼ絶食でした。

 

水分摂るぐらいがギリギリです。

 

  • 夕食までの間

以前の記事で書いた通りで

  • 元気な時はマンガやゲーム・テレビなど
  • 不調の時はベッドでぐったり

 

上記の他にお風呂に入ってました。

 

風呂は浴槽付きで、時間帯によって小さい子達・女性・男性と分かれていました。

 

この時は湯船につかってましたが、みんなが入りますしあまりよくないみたいです。

 

  • 18:00 夕食

夜になるとたまに父がファーストフード買ってきてくれててそれ食べてました。

 

以前にも書きましたが本当に病院食が・・・( ;∀;)

 

消灯までもテレビ見たりゲームしたりしてました。

 

今思い出してみると受験生なのにほぼ全くと言っていいほど勉強していませんでした^^;

 

  • 21:00 消灯

歯磨きして普通は寝ます。

 

けどこれくらいからテレビ番組面白くなってくんですよねえ^^;

 

ということで暗い中テレビ付けて見てましたw

 

巡回に来る看護師さんに何度も寝るんだよーって注意されながら見てました。

 

夢中でゲームしてたこともありますねw

 

さいごに

ざっくりとですが大体こんな感じです。

 

元気な時は普通に過ごせるんですが、副作用が出ているとほぼ1日中ダウンです。

 

元気だとしても常に点滴にはつながれてますしあまり自由という感じはないです。

 

こんな生活が約1年も続いてたなんて・・・。

 

自分で自分を褒めてあげたいです^^;

 

褒めます。

 

よく頑張った!すごいぞ僕!w

 

読んでくれてありがとうございました。

お医者さんと看護師さん

今回はお医者さんと看護師さんについて書いていこうと思います。

 

お医者さん

転院前の病院のお医者さんは、なんというかあくまで"医者"と"患者"の関係というか、どこか冷めた感じがしていました。

 

患者ではなく病気を見ているような。

 

やり取りもほとんど記憶に残ってないんですよね。

 

そのお医者さん達が悪かったわけではないんですが、比べると転院後のお医者さんは温かったです。

 

良い意味でフレンドリーでしたし患者を見ている気がしました。

 

病気の治療とは関係ない日常会話もしてくれましたし信頼できました。

 

僕の担当のお医者さんは陽気でちょっと寒い冗談も言うけど、大事な話の時はしっかり話す信頼できる方でした。

 

それにめちゃめちゃ頭が良かったんです!

 

勉強も教えてくれましたし、暇つぶしの為に買ったけど全然分からず空白だらけだったクロスワードも全部埋めてくれましたw

 

忙しいはずなのに相手をしてくれて嬉しかったです。

 

担当医が信頼出来るって、すごく重要なことだと思います。

 

信頼出来ない医者に命は預けたくないですからね。

 

他のお医者さんも話しやすい良い方ばかりでした。

 

ゲームの話したり、他愛もない話をして。

 

みんな信頼出来ましたし好きでした^^

 

 

 

看護師さん

看護師さんもいい人達ばかりでした^^

 

密かに今日はどの看護師さんが担当かなーって毎日予想するのが楽しみでしたねw

 

素直じゃなくて茶化したりする僕は看護師さんたちによく

 

「ああ言えばこう言う(^^;」

 

って言われてましたねw

(たしか当時の流行語かなにか)

 

普段は調子の良い僕で迷惑もかけたでしょうが辛い時は親身になって支えて下さいました。

 

夜中に副作用で辛すぎて一人泣いていた時にハグしてくれた看護師さんもいましたね。

 

それに高校受験を控えた僕と一緒に勉強してくれた看護師さんもいました。

 

皆さんの優しさが嬉しかったです^^

 

 

 

イベント

 

小児科の子供達のために看護師さん達は色んなイベントを開催してくれていました。

 

誕生日にはジグソーパズルにメッセージを書いたものと、歌詞カードをくれました。

 

Mr.childrenが好きな僕には「星になれたら」の歌詞カードをくれました。

(当時はその曲知らなかったんですがw)

 

夏にはお祭りイベント、冬はクリスマスイベントを開いてました。

 

夏祭りはヨーヨー釣りやくじとかがあった気がします。

 

クリスマスは確か外泊してて参加しなかったんですが、お医者さんがサンタの格好してプレゼントを配ってたと聞いた気がします。

 

長い入院生活で外に中々出られない子供達には嬉しかったんじゃないかなって思います^^

 

 

 

さいごに

 

お医者さんと看護師さんには感謝しかありません。

 

仕事だとしても、みなさん優しくて支えてくれて嬉しかったです^^

 

病気になったのは良いこととはとても言えませんが、素敵な方達に出会えました。

 

一部の人とは今でもたまにSNSで交流しています。

 

ありがたいご縁です。

1日の過ごし方・体力低下対策・病院食について

今回は当時の入院生活での

 

  • 1日をどう過ごしていたか
  • 体力低下対策
  • 病院食

 

について思い出していこうと思います。

 

1日の過ごし方

  • 調子が悪いとき

治療後の数日間は副作用でダウンしてることが多かったです。

 

1日中ベッドの上でぐったりでご飯もまともに食べれていませんでした。

 

部屋を出るのはトイレの時ぐらいです。

 

吐きそうなときはガーグルベースっていう吐く用の器とにらめっこしてました。

 

 

段々調子が良くなってくると試しに水分を摂ったり、食べやすいゼリーから食べていました。

 

口の中が気持ち悪くて中々食べたい気分にならないんですよねぇ。

 

食べて吐いちゃうのも嫌でしたし・・・。

 

  • 調子が良いとき

ゲーム好きだったのでPS2や64、GBAなどを持ち込んでゲームばっかりしていましたw

 

あとはテレビを見たり、DVDを見たり。

 

9時消灯だったんですがテレビってそれぐらいから面白い番組やるんですよね^^;

 

なんで暗い中テレビつけて見てました。

 

巡回してくる看護師さんに毎回早く寝ろ言われてましたねえw

 

あとはマンガも沢山読みました。

 

ノートパソコンはありましたが無線なので速度が超遅くて気の短い僕はすぐやらなくなりましたね^^;

 

携帯電話を買ってもらってからは同級生とちょっと連絡とったり、当時はやってたHPツクール?的なのを使って自分のページを作ったりもしてました。

 

(当時の記憶があればもう少し見やすいブログにできたかもw)

 

テレビカード・ゲーム・DVD・マンガ・ノートパソコン・携帯電話と両親にはすごく沢山買ってもらいました。

 

今思えば凄い出費だったと思います。

 

病気だったとはいえとても申し訳ないです・・・。

 

体力低下対策

入院中は基本的にほとんどベットの上にいて動きません。

 

元から運動嫌いで全然ない体力が更になくなりますw

 

そんな時に一部の患者さん達が体力低下対策として、夜に人の居なくなった外来を散歩しているのを知ってそれに混ぜてもらうことにしました。

 

ずーっと一日中ベッドの上にいるよりかは絶対マシです。

 

その他にもベットの上で簡単に出来る腹筋とかもしました。

 

意外と馬鹿にできなくて毎日続けてると体力も筋力もちゃんと付いてくるんです。

 

だけど治療が始まると副作用が辛くてダウンするので、また体力がなくなっていくんですよね。

 

意味がないじゃんって思えてきて結局やめました。

 

病院食

不味いです^^;

 

前の病院が良かったので更に悪く感じます。

 

(また、前はおやつが出ましたがここは無いです。)

 

病院はホテルじゃ無いのでこんな文句を言っても仕方ないんですが、

 

 

本当に美味しくなかったんです(涙)

 

 

卵焼きに謎の食材を混ぜてドライヤーで乾燥させた様な料理が特に不味かったのを覚えています。

 

母親や父親が来てくれる時は、料理を作ってきてもらったり、ファーストフードを買ってきて貰ってそれを食べてました。

 

それ以外は売店カップ麺を買って食べたり、食パンを焼いたり、米にバターと醤油をかけたりお茶漬けにしたりして食べていました。

 

病院食はパンやご飯などの主食以外はほとんど食べていないと思います。

 

病院食は栄養やカロリーを計算して作られているんでしょうけど、それを食べずにこんな食生活を送ってたので身体に悪かったろうなと思います^^;